おおい町の歩み

 

おおい町の概要
  おおい町は、福井県の南西部に位置し、西は高浜町、京都府綾部市、南は京都府南丹市、東は小浜市、滋賀県高島市に接し、面積は212kmで、そのほとんどを中山間地が占めています。町域の90%以上を山林が占めますが、北は若狭湾に面し、その海岸線は典型的なリアス式海岸を形成し、一帯は国定公園に指定されており、若狭湾に突き出るように大島半島が青戸の入江を挟み北に位置しています。河川は、京都府との県境を水源とする佐分利川水系(大飯地域)と南川水系(名田庄地域)が平野の中央を貫くように西から東へ向かって流れ、小浜湾に注いでいます。山地は、西側の京都府との県境に頭巾山(標高871m)、南側に八ケ峰(標高800m)、東側の京都府・滋賀県との県境に三国岳(標高776m)があり、大島半島には大山(標高478m)があります。北陸地方では緯度が最も低く、対馬暖流の影響もあり比較的温暖で、暖地性常緑広葉樹を主とした豊かな自然植生が広く分布しています。おおい町は、まばゆいばかりに輝く若狭湾や清流きらめく河川、南は京都へと続く山並みに囲まれ、豊かな自然に恵まれています。
          

 


おおいのあけぼの -縄文時代-
 おおい町における最も古い人類の足跡をたどると、縄文時代までさかのぼることができます。青法遺跡、寺内川遺跡、脇今安遺跡、脇の前遺跡、宮留遺跡、浜禰遺跡、吉見浜遺跡、岩の鼻遺跡が知られていますが、ほとんどの遺跡が大島半島に集中しており、内陸部では名田庄三重に所在する岩の鼻遺跡のみです。最も古い遺跡は岩の鼻遺跡で、地面に浅い円形の穴を掘った縄文時代早期(約10000から9000年前)の竪穴住居跡6棟が確認されています。大島半島では青法遺跡が最初に形成された遺跡で、縄文時代早期末(約6000年前)の土器が出土しています。

 


農耕文化の広がり -弥生時代-
 弥生時代では、水稲栽培を基盤とする農耕文化とともに北部九州から西日本一帯に波及した遠賀川式土器が、大島半島の宮留遺跡、浜禰遺跡、吉見浜遺跡から出土しています。遠賀川式土器は弥生時代前期末(約2500年前)にあたり、若狭地方でも早い時期に弥生文化が伝播し定着したことを示しています。

 


土器製塩の始まり -古墳時代から奈良時代-
 町内での遺跡の発掘調査の歴史は古く、昭和33年(1958)~昭和36年(1961)まで、旧大飯町教育委員会、同文化財保護委員会、同志社大学考古学研究室の共同により組織的な学術調査が行われました。この調査により大島半島の浜禰遺跡から古墳時代前・後期の製塩土器や祭祀遺物が出土、小堀区に所在する船岡遺跡では奈良時代の大量の製塩土器とともに整然と配列された大型石敷炉群が検出され、若狭の土器製塩の様相が初めて明らかとなりました。また、多くの古墳群も調査され、古代若狭における土器製塩とともに古墳時代後期の研究に大きく寄与しました。その後も、大島半島を中心に数多く発掘調査が行われ、当地における土器製塩は平安時代まで続けられていたことが確認されています。若狭国は塩の一大生産地であり、調として都に納められていました。奈良の藤原京跡や平城京跡から出土する木簡からもうかがうことができます。
 古墳時代後期(約1400年前)には、神田古墳群(大島)、ヒガンジョ古墳群(大島)、滝見古墳群(芝崎)などに代表される横穴式石室を有する後期古墳の築造が盛んに行われ、町内で約200基もの古墳が確認されています。近年、舞鶴若狭自動車道建設工事による発掘調査が行われ、大飯神社古墳群(山田)では、町内で初めて前方後円墳(大飯神社1号墳)が確認され、大飯神社古墳群を始め、周辺の古墳群の被葬者を従属させた本郷地区の首長層の古墳であると考えられます。

   


大飯郡の成立 -奈良時代から平安時代-

 律令制下では、国の下には「郡」(7世紀は「評」)・「里」(後に「郷」)という行政機構が置かれ、若狭国には「遠敷郡」「三方郡」のニ郡が置かれました。天長2年(825)、遠敷郡から「大飯郡」(名田庄地域を除いた地域)が建郡されます。これは、郡の再編によるものですが、郡衙による当地から納められる大量の海産物や塩などの集積統括と納入事務も関係していると考えられます。

 


仏教文化の隆盛 -平安時代-
 若狭国は奈良や京の都と関わりの深い地域であり、木簡にも見られるように古くから様々なものが街道を行き交いました。このような交わりの中で都の洗練された文化は若狭の表情をより豊かにしてきました。律令期の初めには都から仏教文化の伝来があり、早くから寺院が建立されたと考えられます。現在町内では、奈良時代に入る寺院跡は確認されていませんが、山田集落から奈良時代の古代瓦(布目瓦)が採集されており、この周辺に寺院もしくは役所の存在がうかがえます。
 仏像をはじめとする仏教美術品は数も種類も豊富で、重要文化財に指定されている優品が多数残されています。町内では長楽寺(大島)・常禅寺(大島)・清雲寺(大島)・意足寺(万願寺)に7躯の重要文化財が所在します。これらの仏像は、都の文化を映して生みだされたものや、直接当地にもたらされたものであり、各寺院やその周辺に住む人々が経済的に豊かであったことを物語っています。若狭は都に近く、多くの都風の仏教美術品が伝来し、現在も大切に守り伝えられてきたもので、長年の緊密な往来をしのばせてくれます。
          


武家社会の形成 -鎌倉時代から戦国時代- 
  鎌倉時代、武家による政治が始まって間もない承久3年(1221)に承久の乱が起こりました。これは後鳥羽上皇とその近臣が鎌倉幕府打倒に挙兵した事件です。この乱により幕府方は勝利を治め、幕府の朝廷に対する優位が確立しました。その後、東国出身の御家人を西国各地に配置し、幕府の支配を強化していきます。
 それより以前に、幕府の命により若狭国大飯郡本郷の地頭職に東国の御家人であった美作左近大夫朝親が任じられました。そこで「本郷」を名乗り、本郷朝親がその初代となり、16代約370余年もの間、本郷を中心とした地域を治め、その治世に尽くしました。
 一方、佐分利地区は武藤氏により治められていました。武藤氏の興りは定かではありませんが、元丹後国の国士で若狭守護武田氏が丹後国を併領した時に属したとされ、武田氏の重臣でした。日本各地に戦国大名が割拠し武力抗争をくり返していた戦国時代、当地でも例外ではなく、武藤氏は本郷氏や高浜を治めていた逸見氏などと争い、また天下統一をめざす織田信長に対しても抵抗するほどの武将でした。
  

 


荘園と名田庄 -鎌倉時代から室町時代-
  名田庄地域は、平安時代末頃に成立した荘園である「名田荘」に由来します。名田荘に関する初見は永暦2年(1161)の『若狭国留守所下文』に「名田村」がみえます。荘園となる以前の「名田村」「名田郷」は左衛門尉盛信の私領でしたが、仁安3年(1168)に高倉院に仕える伊予内侍の所領と交換します。領主となった伊予内侍は立券(荘園成立のための文書の作成)を遂げ、後白河院発願の蓮華王院(京都妙法院門跡)を本家と仰ぐ荘園として成立しました。以後、名田荘の村々はしだいに別々の領主に相伝され、複雑な経緯をたどっていきます。14世紀半ばに荘園の大半が京都 大徳寺の別格寺院であった徳禅寺へ寄進されます。
 荘園の領域は「若狭国名田郷御領四至注文」に「限東大河 限南丹波山 限西上林山 限北武味山」と記され、大河は現在の南川、丹波山は京都府との県境の山々、上林山は納田終尼来峠周辺の山々に比定できます。武味山は小浜市の飯盛山あるいは小屋周辺の山々と推定されています。
 名田荘に関する資料の大部分は大徳寺およびその関連寺院に伝えられていますが、蓮華王院との関わりを示す資料が名田庄に残されています。
 16世紀初頭には荘園は崩壊し、若狭武田氏によって支配されます。

 


幕藩政治と鎖国 -江戸時代-
 長らく続いた戦乱の世は豊臣秀吉によって終わりを告げ、その後、実権をにぎったのは徳川家康でした。
 慶長5年(1600)、若狭国は京極高次に与えられ、当地における幕藩政治が始まります。寛永11年(1634)には武蔵国川越から酒井忠勝が入封、小浜藩主となり、以後230余年もの間当地を支配していきます。
 江戸時代初期、幕府はキリスト教禁止令や日本人の国外への渡航や帰国、外国船に対する制限も厳しくしていきます。こうした鎖国政策は200年以上続けられることになります。
 江戸時代後期、日本に開国を求めて外国船が来るようになり、幕府は各藩に沿岸の警備を命じます。小浜藩でも御触書を出すなど海防策を整えます。安政元年(1854)には、大島半島に砲台(台場)が築かれましたが、間もなく日本は鎖国の時代に終わりを告げます。

 


町・村の誕生とおおい -明治時代から昭和時代-
  明治に入ると新政府は新しい改革を次々に打ち出します。それまで地方を支配していた藩は廃止、県が置かれ小浜県が誕生しました。その後、敦賀県、滋賀県など二転三転し、現在の福井県に編入されることになります。明治21年(1888)には市制町村制が公布され、その翌年に大飯地域では「佐分利村」「本郷村」「大島村」が発足、名田庄地域では「南名田村」(明治24年(1891)「知三村」と改称)「奥名田村」が発足しました。明治30年(1897)に知三村・奥名田村が合併し「名田庄村」が誕生します。昭和30年(1955)には佐分利村・本郷・大島村が合併し「大飯町」が誕生します。合併当時は台風による大きな被害を受けた直後でしたが、町制発足とともに復興への道を力強く歩みはじめました。
     

 


おおいの民俗
  正月や節分、お盆などには各集落で伝統的な行事が行われています。特にお盆には各集落でそれぞれ特色のある盆踊りがみられます。福井県の無形民俗文化財に指定されている行事も多く、お盆に集落の家々を回って門念仏を行う鹿野・父子区の「六斎念仏」や、福谷区の勇壮な火祭り「大火勢」などはその代表といえます。

 


産業のいま・むかし
 おおい町では農業・漁業・林業が重要な産業となっています。この他、現在では行われていませんが、銅山や石灰の採鉱も盛んでした。また、水のきれいな若狭湾では真珠の養殖に適しており、昭和28年(1953)には真珠養殖が始まります。昭和54年(1979)には大島半島に原子力発電所(関西電力(株)大飯発電所)が運転を開始、西日本最大の電力供給基地としてその役割を担っています。発電所は、おおい町の活性化や地域振興の分野で大きな力となり、現在では重要な基幹産業となっています。
      

 


新しい時代の幕開け -平成時代-

 平成16年(2004)に大飯町と名田庄村との間に合併協議会が発足、多くの議論を重ね、人々の期待と万感の想いのもと、平成18年(2009)3月3日、「おおい町」が誕生しました。