松木庄吉『彫刻ひとすじの青春』
松木庄吉は大正3年(1914)6月12日、旧遠敷郡熊川村新道(現在の若狭町新道)で石材店を営んでいた父庄太郎・母な津の三男として生まれました。2人の兄がいましたが生後間もなくして亡くなったため、松木家の後継ぎとして育てられました。大正10年(1921)4月に熊川小学校に入学しましたが、2年生の時、家業の事情で大飯郡本郷村本郷(現在のおおい町本郷)に転居、本郷尋常高等小学校に転校しました。松木は勤勉、努力家で学業成績は優秀で、特に芸術分野での絵画・彫刻・書道は非常に優れ、天才的な才能に恵まれていました。
昭和4年(1929)4月、小学校卒業後、青年訓練所に入所、家業を助け石工として励み、独学で石彫の研究を始め、余暇には書道を修めていました。
芸術家としての才能に目覚めた松木は、昭和9年(1934)21歳の時、父の強い反対を振り切って上京、文展(文部省美術展覧会 現在の日展の前身)審査員を務めていた彫塑家 小倉右一郎に師事、昼間は石材店で働きながら、夜間は東京市滝野川区(現在の東京都北区南部)にあった小倉先生の滝野川彫塑研究所で本格的な彫刻の勉強を始め、芸術家としての道を歩み始めました。冬の間は郷里の本郷に帰り家業を手伝うかたわら、自身の制作にも励み、6月頃上京し研究所で展覧会の出品作品や注文品制作に専念し、展覧会が終わる12月頃帰郷する生活を繰り返していました。
昭和10年(1935)展覧会に初出品。その後毎年作品を出品し、昭和13年(1938)25歳の時、第二回文展に「裸婦」を出品し初入選します。その後も作品を展覧会へ出品し続け「対岸」「青年」「空」「朝」が連続して入選します。昭和18年(1943)30歳の時、第六回文展において「逆風」が特選を受賞。作家としての前途を約束され文展無鑑査の資格が与えられました。入選・特選受賞の輝かしい栄冠を手にした松木のもとには彫像制作の依頼がくるようになり、若狭地方にも多くの彫像が遺されています。
当時、日本は第二次世界大戦に突入し、中国大陸、南太平洋、東南アジア地域において熾烈な戦いを展開していました。昭和18年12月、松木も召集令状を受け、激戦地であった西部ニューギニア島へ出兵します。昭和19年(1944)12月、ビアク島で惜しくも戦死され、享年31歳の華開く若い生涯でした。
短い生涯の中で、しかも戦時下という最も厳しい体制のもとで精力的に数多くの名作を遺しました。作家活動はわずか11年間でありましたが100点以上を創作したと思われ、その遺作は現在確認されているだけでも60点以上を数えます。それらの遺作は制作後半世紀以上経過しているにもかかわらず、未だに光芒を放ち観る者に深い感動を与えています。遺作の中には石彫、石膏、木彫、ブロンズ、デッサン画と実に多彩です。また書において松木の優れた筆跡は、書家に匹敵する力量として認められ、書簡などにも円熟した筆跡を数多く遺しており、それらによっても、極めて非凡な才能をうかがい知ることができます。
松木は石工の家庭に生まれ、幼少よりノミの音とともに成長し、しかも少年期より石を敲くことを重ねてきました。恵まれた環境に育ったことと天性の素質とが相まって、上京し彫刻を修練するに当たって大きな力になったと思われます。
これらのことから、松木芸術は高度なセンスと卓越したテクニックを根幹とし、それにたゆみない努力によって開花したといえるでしょう。